縁起 この寺は、大永2年(1522)に良恩上人是頓によって開山されました。当時、湯本村を支配していた若松紀伊守は、温泉宿で布教していた上人に信随し、寺を建立して寄進しました。その寺も安永8年(1779)と安政年間(1854~1859)に火災にあって、本堂および庫裡を焼失していますが、その都度再建されました。しかし、それも戊辰の役(1868~1869)で観音堂を含め全堂を焼かれてしまいました。現在の本堂は明治10年(1877)に再建されたものです。 墓地には、松平定信に支援されて日本の銅版画洋画界をおこした亜欧堂田善の高弟・東嶽田(安田田騏)の墓や、俳人であった内藤下野守政栄(内藤露沾)の高弟・沾巴の墓などがあります。 当寺では、かつて「寸陰学舎」という寺子屋を開いて庶民に読み書きや心の教育をしていたころ、遊女のための教育にも取り組んでいました。 |
本尊 ご本尊さまは、建武2年(1335)に造立された寄木造りの阿弥陀如来坐像で、福島県の重要文化財に指定されています。その優しく穏やかなご面相はとても有難く、心安らぎます。 |
観音山 当寺が古くからお守りしてきた観音山は、一山そのものが観音さまとして信仰されてまいりました。山上には、平藩主・内藤公が寄進した観音堂がありましたが、戊辰の役で焼かれてしまいました。 いわき湯本温泉の盆踊りは、そもそも観音さまのお祭りとして、山上の観音堂前で人々が集い踊っていたのが起源です。 山腹には、文化財たる墳墓「やぐら」が存在しましたが、疑惑の公共事業によって破壊されてしまいました。 山裾には、詩人で童謡「七つの子」「十五夜お月さん」「赤い靴」などの不朽の名作を生み出した野口雨情が住んでいました。愛娘を一人亡くしている雨情の心には、夕日が沈む観音山が西方浄土のように映っていたのではないか、と偲ばれます。日没とともにカラスが子供の待つ観音山へ帰っていくのですが、雨情にとってこの情景は感慨ひとしおであったことと拝察します。観音山は、雨情の詩情を豊かに育み深めたことでしょう。 |
七つの子 烏 なぜ啼くの 烏は 山に 可愛い七つの 子があるからよ 可愛 可愛と 烏は啼くの 可愛 可愛と 啼くんだよ 山の古巣に 行って見て御覧 丸い眼をした いい子だよ この山は、桜の名所としても親しまれており、開花期の4月には「桜まつり」として数百個の提灯に明かりが点され、情緒を醸します。 湯本小唄 作詞 西条八十 作曲 古関裕而 湯本よいとこ 観音山の コラサット 桜散り込む 湯船で聞いて 春の夜更けの 相馬節 よっせ こらっせ よい湯本 よかっぺ すきだべ よい湯本 |
観音堂のご本尊さまである観世音菩薩像は、お堂が焼かれた際に辛うじて難を免れたものの、そのまま行方不明になってしまいました。湯本のどちらかのお宅に安置されている、という情報は得ているのですが、いまだに行方が知れません。お心当たりの方は、ご一報をお願いいたします。 いわき湯本温泉 いわき湯本温泉郷にある当寺は、「温泉山 惣善寺」というくらいで、寺の「縁起」でご紹介しましたように温泉とは深いご縁があります。 いわき湯本温泉は、千年前の平安時代にはすでに「さはこの御湯」と呼ばれ、愛媛県の道後温泉や兵庫県の有馬温泉などとともに日本三大古名湯の一つに数えられていました。湯本温泉にはこれまで数々の文人墨客などが訪れ、「さはこの御湯」は平安時代の『拾遺和歌集』などにも詠まれています。 厭かずして 別れし人の 住む里は さはこの御湯の 山のあなたか このように世知辛い現代だからこそ、古代名湯で身心を癒すことも必要なのでは… ⇒ いわき湯本温泉 |
住所 福島県いわき市常磐湯本町三凾317 当寺周辺地図 いわき市・・・昭和41年に5市4町5村が合併してできた日本一広い市。 (平成15年4月1日に合併してできた「静岡市」が、「いわき市」を 抜いて日本一広い市となるまで) 常磐・・・・・・・いわき市として合併する前、ここは常磐市でした。常磐は、鉄道の 「常磐線」、高速道路の「常磐自動車道」、そしてかつて栄えた「常 磐炭田」などの名で知られています。 湯本町・・・・・読んで字のごとく、お湯が湧き出ていた本。かつては地表に湧出 していた温泉も、炭坑を地下深く掘り下げていったために、残念 ながら現在では地表湧出はなくなりました。 三凾・・・・・・・これは、「さはこ」と読みます。さはこは、上記「いわき湯本温泉」で ご紹介しましたように、千年以上も前から親しまれてきた由緒ある 名です。 さはこ 「さはこ」とはいったい何を意味するのか。これにはいくつかの説があって、決定的な解答はまだ出てないようです。語源はアイヌ語であるという説、また自然発生的に現れたとする説などもあります。いずれにしましても古文書の表記により、千年以上も前から用いられていた古いことばであることは間違いありません。かつては湯の岳を「さはこ山」と呼び、湯本温泉のことを「さはこの御湯」、温泉神社を「さはこ神社」と言っていたそうです。そして千年以上にわたって代々つづく温泉神社の宮司さんの姓が「さはこ」さん。漢字は、「三箱」「三凾」「佐波古」などがあてられています。 さはこの由来で一般的な説として、湯の岳の山頂に箱型の大きな石が三つあったため三箱山と名付けられたのが始まりであると伝えられます。 歴史に学ぶ意味で、注目すべき一つの由来があります。平安時代初期に活躍された法相宗の学僧・徳一上人が、湯の岳の頂上にあった三つの箱型石のそれぞれに、「戒(かい)」「定(じょう)」「慧(え)」と書き印した、あるいは戒・定・慧それぞれが入った三つの箱を頂上に納めたのがさはこの始まりという説です。戒・定・慧の三つをまとめて「三学」と言い、佛道を修行する者の修めなくてはならない三つの最も基本的な修行項目です。 その三学の意味とは、次の通りです。 戒=持戒・・・悪いことをしないで、善いことをする。 定=禅定・・・身心を調え、精神統一して心の安らぎを得る。 慧=智慧・・・安らかになった心で正しく真実のすがたを見極める。 さはこに込められているこれら三学は、佛道修行者だけでなく、広く人間として学び修めるべきたいせつな事柄でありましょう。だからこそ、徳一上人は一寺院にではなく、湯の岳の頂上に三学を納められたものと推察されます。 物質的繁栄に明け暮れた「物の時代」に行き詰まり、心の豊かさと安らぎが求められる「心の時代」が到来した今、「さはこ」が光明を放ちます。 |