子育観音像と雨情詩碑 観音山は、戊辰戦争で山頂の観音堂を焼失したものの、古くより十一面観世音菩薩像を中心に、観音信仰の山として奉拝されてきました。しかし、昨今の加速する少子高齢化によって、山頂への参詣に支障をきたすようになってまいりました。そこで、容易に参詣でき、また街からも遥拝できる観音山中腹への観音像建立が必至となったしだいです。 少子化が加速する時代にあって、日本の将来を担うかけがえのない子どもたちの無事成長を見守り、生きとし生けるものすべてをわが子として慈しむ観音さまの大慈悲を、「子育十一面観世音菩薩像」として具現化させていただきました。 現在地の下方には、大正時代の一時期に童謡詩人の野口雨情さんが住んでいました。雨情さんは生後まもない長女を亡くしており、かわいいさかりの長男と次女を連れてこの地に移り住んだのです。そんな雨情さんが、観音山に沈む夕日や、夕焼け空を子どもの待つ山へ帰巣する烏(からす)、そして山上の夜空に浮かぶ月などを眺めては、詩情を深めていったことでしょう。現に雨情さんは、湯本時代を経てから次々と名作を生み出していきました。観音山は、言わば雨情童謡の原風景であったことになります。 そこで、このゆかりの地に、雨情さんの直孫・不二子さんの書による、雨情童謡中の不朽の名作「七つの子」を詩碑として建立させていただきました。 観音さまの大慈悲と、雨情さんのたいせつにした童心が、あまねきことを祈念いたします。 |